昭和46年06月03日 朝の御理解



 御神訓 一、
 「疑いを放れて広き真の大道を開き見よ。わが身は神徳の中に生かされてあり。」

 御神徳の中に生かされてあると。神様のお懐の中にあると。これが真実ここのところが分からせて頂けば、もう貴方は救われておると言う事になるのでしょうけどね。なかなか、そこのところが頂けない、分かっていないところに、いわば問題がある訳です。そこで、その問題のいわば本質とでも申しますかね。問題のいわば本当の意味においての実態というものが、段々分からされて来るところから、それもおかげと。それも神愛の現れであると分からせられる。
 そこにいよいよ広き大道を開き見ることが出来る。疑いも晴れて来る。どうしてもただ疑いを放れてと。まあ信じなさい信じなさいと言うただけではね、理屈の上では成程神様の、いわばお働きの中に、御恩恵の中にこうして生かされて生きておるんだと分からされても。いわゆる神徳の中にあると言う事が分かっておっても、なかなかそこに安心とか、喜びという物が頂けません。問題のいわゆる本質を分かる。まあ問題とまあ難儀の本質と言うた方が良いかも知れませんね、お互いが感じておる難儀。
 なかなか難しい分かりません。御理解68節に神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃとありますね。私共が疑いを放れたい、広き大道も分かりたい。わが身は神徳の中に生かされてある喜びも謳歌したい。けれどもその基礎となる物、また内容となる物が、私は神参りをするに、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならんという辛抱が必要になって来るんじゃないかと。何と言うても、やはり信心の体験を積んだ人には勝ちません。
 そこで神参りをするに雨が降るから、風が吹くからと言う事はね、例えば信心をしておっても、これが雨でもあろうか、風でもあろうかと言う様な、今日はいわゆる難儀の中に降り込められたり、又は難儀の中にもうこれは、こっちの方が持てんと言う様に、吹き折れるばかりの、まあ風に遭うと致しましょうかね。そこのところをですね、えらいと思うてはならぬと。それを難儀と思うてはならん。その辛抱こそ身に徳を受ける修行だと。この辺のところの修行がね大事。
 それがどう言う事になるかと言うと、人徳を受ける修行じゃと。いかに有り難そうに信行や大祓いを上げても、心に真がなければ神に嘘を言うも同然じゃ。人間の一番心配な時、不安な時難儀を感じておる時、感じぬ時。実はそういう時にですね、そこを辛抱すると言う事。又はそこが泣く泣く辛抱すると言う事にもなるかも知れません。その修行が大事である。その辛抱こそ身に徳を受ける修行。して見るとその雨が降るとが、風が吹くとかぐらい人生のですよ。人生航路の上においてです。
 これが雨でもあろうか、風でもあろうかと、それこそ泣く泣く辛抱しなければならないような時にこそ、実を言うたら、一番神愛がハッキリ現れておる時と言う事になるのじゃないでしょうか。次にその辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと仰せられてある。ですから、その身に徳を受ける一番、絶好の機会に言うならば恵まれたと言う事にもなる。その恵まれた時期という物をですね、辛抱しきれないと言う事になると、それはもう修行にはならないのであり。
 身に徳を受ける修行に恵まれておっても、身に徳を受ける修行にならない。いかに日頃有り難そうに信行や大祓いを挙げておってもね、心に真がなければ神に嘘を言うも同然じゃと、いうことになりますから、私共がいかにその難儀、またはその雨風という物を大事に勇んで、鮮やかにそこのところを受け抜いて行かなければならないかという事が分かります。その勇んで鮮やかに受けて行くと言う事がです、身に徳を受ける修行と言う事になる。疑いを放れて広き真の大道を開き見よと。
 たったこれだけの事ですから、まあ信じなさい、信じなさいとね。疑いを放れなさいと。広き真の大道をそこに見ることが出来ますと言うても、そう簡単にやはり疑いながら、やはり神さまへすがる時期、時代というものがです、いかに辛抱こそ身に徳を受ける修行という、その辛抱がその中になからなければならんか、という事が分かります。そこでです、その例えば辛抱が、しやすいとでも申しましょうか。辛抱がしよいし良いおかげを頂く為にです、私共の信心の願いという。
 その願いの焦点が真の事になっとらなければならん、と言う事になります。でないとですね、辛抱しきれなくなるです。真の大道を開き見せて頂こうと。いわゆる本当の真の道が分かりたい、真の信心が分かりたいと言う様な信心ですね。いわゆるおかげの道より、信心の道という事になるのです。それはおかげを受けなければなりませんけれども、そのおかげっていう、自分がおかげと感じれれる、自分に都合の良い事だけが続くという事はあり得ませんからね。
 私は昨日、午後の奉仕の時に、久しぶりに参ってきた御信者さんがあった。兄弟熱心に信心をされ大変おかげを受けまして。まあ熱烈な信心でした。まあ周囲から見るとそれこそ狂信と思われるくらいに熱心でした。その方がおかげを頂いてもう本当に不思議な、もう本当に不思議なおかげを頂いたんですよね。まあ言うなら医者の見離したような病人が、あの助かりましたり。色々信心も体験も積んでもうそれこそ、まっ親先生を当時は神様のように頂ききっておられるかのように見えた。
 所が御主人が病気をされましてね、それから医者に掛かられて、そしてまあ全快のおかげを頂かれて退院された。その頃から信心がいわば迷い出されて、とうとう信心を止めてしまわれた。二人の子供がありましたが、その二人の子供もその当時まだ11~12だったでしょうか。お母さんについて一緒に熱心に参って来よった。あれ程の熱心なそれこそ信心気違いじゃなかろうかと、信心のない者から言うたら思われる位な熱心な信心をしておって、そういう不思議な体験も受けさせて頂いておったのですけれども。
 だからおかげは頂かなければならんけれども、信心の何たるかと言う所。いわゆる真の信心真の大道を開き見せて頂ける程しの、信心を目指させてもろうて、神徳を受けて行かなければね、ただ熱心にお参りが出けておるというだけでは、そのように迷いが起こって来る。その方の妹さんになる方が、まあ月に一偏くらい、二月に一偏という時もあるけれども、たまに参ってくる。昨日ちょうど参ってまいりました。まあ別にいい人でしてね、人間的にはとても良い人なのですけれども。
 先生もう神様の事は一つも忘れませんと。あんたがあれだけ熱心に信心しよったっちゃから、忘れはするまいけれどもね、やっぱりあの神様から遠ざかると言う事は、神様そのものはには変わりはない。この例えばこの手のひらを神様とするとね、これだけの物だけども、これが段々離れて行くとね、これが小さく見えてくるようになるんだ。これ事態は、心には神様をいつも頂き続けておるようであるけれども、遠ざかって行くに従って、その神様は小さく見えてくる。
 神様が小さくなりなさるのじゃない。こちらが遠ざかるから小さく見えて、終いにはあんたげの姉さんどんじゃなかばってん、見えんごとしまうがの、と言うていう話からでした。もう本当に先生、姉達の場合なんかは、もうそこんところが忘れきられてしまっておる感じでありますと。それでもちょうど、ここにお参りをして来る途中にありますから、先日もちょいと合楽まで送ってくれんのち言うたら、んなら私が送ってやろうと言うちから、ここまで自動車で送ってくれた。
 信心は止めたけれども、なかなか仕事の方も順調に行くし、健康にもなるし、子供達はおかげでもう頭が良かったですから、二人とも大学を出る人で、まだ大学に在学中大学〔 〕と言った様におかげを頂いて。ほらの信心せんでん、こげんおかげを頂くばいと言う様に、おかげを頂いとる。もうアンタもういいかげんにと言われるけれども、ならその人はまだ心の中に神様がありますもんですから、時々はお礼参拝をさせてもらうという程度。そしてここまで送って来るからね。
 ここまで来たっちゃけんちょいと寄りなさい、親先生がどげん喜びなさるかん知れんばいち。いんやまあちょいと寄るごと言うて、まあとうとう寄らんで帰ったとこう言う。その前の時もやはりそこに寄らせて頂いて、その娘の方から自動車で送って貰ったと。姪になりますそれけんアンタも子供の時はあげん参りよったっちゃけん、お参り一つして行かんのと言うたけれども、おばちゃん私は良うよう最近ね金光様、金光様て唱えんで済むようになっとるとこじゃから、もうこれから先は私の心は乱さんでくれち言うた。
 子供の時にお母さんがあげな、それこそ気違いの様な信心しござったから、その時分に私達の難儀苦労という物は大変な事じゃった。まあだ言うならご飯の炊く道もよく知らんとに、お母さんの朝参りをされるから、早うから起こされて、お父さんな寝てござる。私だん兄弟二人起きてからご飯を炊いたり、炊事をしたりして難儀苦労をして勉強したとこう言う。それでもやはり母さんから仕込まれて、さあお神様を拝んだか参ったか。さあ参って来なさいと言われて。
 いわゆる金光様、金光様と言う事を覚えさせて頂いて高校に入り大学に入って。それでもやはり金光様が、お参りはせんけれども、いよいよの時には金光様が出て来よったっち。ところが十何年立つ間に、ようやくおばしゃん、おかげで金光様ば言わんで済むようになっとるところに、またお参りをしよんなら、また金光様言わにゃいかんごとなるけん、おばしゃん、もうそげん私の心を乱してくれるなち。もう私は言いようがなかったと、こう言うんです。
 私それを聞いてね、いつも私は心にも掛けておる事だし、思ってもおりますから、どげんしよるじゃか、どうしよるじゃろうかと、噂に聞くと大変おかげは頂いておると聞いておりますから。けれどもいつも心に掛かっておる。その人があのもう信心は止めても、こげんおかげは受けられるよと言い、姪はようやく金光様を唱えんで済むようになったと言うて、それを反対に幸せと思うておるほどしの中に、先日からも子供が大学何か、外国行きを致しました時に、あの飛行機で行くのに一分間遅く乗り遅れた。
 その飛行機が墜落した。それもそれを聞いた時に信心が遠のいておる私ですら、ほおやっぱ信心を昔はあげんしよったけん、おかげ頂いたち言うちから思いよった所が、もうおかげのおの字も言わんち。ほんにふが良かったとしか言わん。まああれだけ熱心な信心をしよって、まあ良うもあげな事が言えたり、思うたりするもんじゃあるなあ。本当に姉が言う様に、神様がいわばこの世にはござらんとじゃろうか、信心はせんでもやはりあげん幸せになって行けると思う位だと、昨日言うておりました。
 丁度4時の御祈念になりましたから、その終わって御祈念。私は本当にそれを聞いて悲しゅうなりましたね。金光様を唱えんで済むようになったと。ようやくいわば癖のごとして金光様と唱えよったのが、唱えんで済むようになった。けれどもねそれこそもう本当に親先生は神様のような人、金光様の信心を頂いておる事は有り難いと言うて、あれほど人にも言い当時の椛目の時代に、椛目の中心にもなって御用頂いた人がです。
 その良うも良うもそんなに変わられるもんだと、思うのでございますけれどもです。私はいよいよ信心がですね、いわゆる今日の御理解を引くと、広き真の大道を開き見よ、わが身は神徳の中に生かされてある、神徳の中に生かされてある信心が、いよいよ深う広う分かって行く信心になって行かなければ。どんなに有り難そうに言うておっても、それは神に嘘を言うも同然じゃという、只今の御理解のところになって来るのです。
 どんなに大声で大祓いを挙げておってもと。真がなければとこう言う事は、いわば真を目指しておらなければね。本当の信心を目指しておらなければ、それはどんなに言うておっても、それは神に嘘を言うも同然じゃという、また結果にしかなっていないと言う事です。その事を私神様に、本当に悲しゅうなってね。その事を神様にお願いさせて頂きよりましたら、こうひょうたんのような感じのね、何かが入ってるんです。
 その口をしっかり括ってある。丁度まあいうなら水じゃないけれども、水をこゆくした様なまあドロッとした様な物がね、丁度まああの練り歯磨きのチューブ入りの様なその、袋の中からこうやって絞り出しよるところを頂いた。ここは括ってはおるけれども、その、柔いもんですから、そのそこからずうっとこう、絞れば出て。もう後、わずかばかり残っておるところを頂いた。
 なるほどこの神様は、それこそ一足でも無駄にはさせんと教えられるのであるからね。それこそ、一生懸命に討ち込んでおったという事。一生懸命の信心をしておったと言う事は、まあ丁度言うならば、銀行に貯金をしておったように、貯金を神様は貯金として認めておって下さる。始めの間は利だけでやって行きよったけれども、もう利だけじゃなく現金に手が掛かって来た。
 さあなるほどおかげはどんどん頂きよる、健康にはなった子供達の出来は良いという、言うならば九死に一生をと言う様に、たった一分違いで命拾いをするというような奇跡的なおかげまでも受けておるね。それはです神様がね、一歩でも例えば合楽なら合楽に、金光様には一歩でも足を向けたら、一歩でも無駄にはさせんと仰る意味が分かりますけれども。これを私は使い果たした時の事を思わせて頂くのでございます。
 その人の従兄弟になる人達が、現在ここで熱心に信心をまだしております。御神前に私がそれをね、そういう事をお知らせに頂いて、はあこれはもう信心の言うならば、徳切れという意味じゃないけれども、信心切れとでも申しましょうか。切れで使い果たした時の事を思うておりましたら、その子に熱心に討ち込んでいるその従兄弟さんと、まあこの人達なんか今、今が修行の真ん中じゃろうか。信心しよったっちゃどうしてそげん修行せにゃんのち言うごたる、修行の真っ最中にある中であります。
 そしたらその人が年をとってですね、丁度あの私共小学校の時にあの、修身科ちあったですね。子供の時にはもう非常に難儀をして、立身出世をした人が、もう羽織袴で道を通っておると、その木の根方にですね、もうそれこそみすぼらしい乞食が、こうしておる。よくよく見ると、それは子供の時に大変金持ちの息子さんで、大変贅沢をして育ったというその人がもう、家も屋敷も無くしてしもうて落ちぶれて果てておる姿。
 だからこげな風になるから、しっかり若い時に修行はしとかにゃん、若い時に苦労しとかんなん、というような内容の修身、の絵がついておるのがありましたがね、その絵のところを頂いた。その絵がです今ここで一生懸命、修行しておる人がその羽織袴をつけておる。そして今私今お話を申しました、信心は止めとるけれども、おかげを受けておる人が、それこそみすぼらしい状態でね。これは勿論心の状態でしょう。年をとって行くに従って、心が寂しゅうなる。
 もう私は年をとって行くに従って、心が寂しゅうなるぐらい、私は悲しい事はないと思うですね。年を拾うて行くに従って、心が賑やこうなる有り難うなる。信心は年をとれば、とるほど有り難うなって行くという信心じゃなからなければ、本当じゃありません。信心をしておれば、一年一年有り難うなって来ると仰るが。その一年一年、有り難うなって来るというような信心でなからなければ、私必ず迷いが起こると思うです。というほどしの、開きが出てくる。これはもう本当にそうです。
 身に徳を受けて頂いて段々、段々有り難うなって行く不平がない、不平を思わんで済むというようなです、生活が続けられて行く時に、そう言う事にもならせてもらうが、さあ、先の事は分からんから、それを信じて聞いて下さる方は、なるほどそうじゃろう。今の内にしっかり信心修行させてもろうとかんなん、と言う事になりますけれどもね。今調子の良い人にそれを言うてもです、そげな事があるもんのと、まあ一蹴したり一笑にふしたりする事でございましょうけれども。信心と言うのはそういうおかげ。
 いわば今日「疑いを放れて広き真の大道を開き見よ、わが身は神徳の中に生かされてある」という事が、実感として分かるという事はね、信心をさせて頂いて、真のいわゆる神に嘘を言うようなものだというものではなくてです。神様へ真実を捧げての信心。信心は本心の玉を磨くものであり、日々の改まりが第一と言う様な所に焦点をおいてね。年々歳々、有り難うならせて頂く信心のけいこをさせて頂いて。
 わが身に神徳を受けて行くというところからです、わが身は神徳の中に生かされてあるという限りない信心の喜びがあるのであって。これは一朝一夕で頂ける事ではないてね。そこでです、私共がそういう疑いを放れて、真の大道を開き見せて頂き、わが身は神徳の中に生かされてある喜びを、謳歌かし得る信心を頂かせて頂く、その過程においてです。私共が何を分からなければならないかと言うと、私共が難儀と言うておる、難儀の実態である。言うならば信心をする。
 神参りをするのに雨が降るから、風が吹くからえらい大儀と思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳を受ける修行だと仰られる。その辛抱なの。三代金光様も、神信心には辛抱する事が一番大切でございますと仰せておられる。だからその辛抱がしきれんごとなるところから、信心が止められる。なぜしきれないかと。本当の事が分かってない本当な事を目指してないからである。本当な事が分かって行ったら、その成程辛抱しなければならないほどの、雨であり、風であるという中にです。
 今こそ身に徳を受ける修行じゃと言う事が分かるから痛い、叩かれれば痛いけれども、けれども身に徳を受けて行くところの有り難さというものが、身に染みて行くのです、だから有り難うなって行く。その難儀を感ずる雨風を感ずる時こそ、身に徳を受ける絶好のチャンス、機会であると分からせて頂くような信心をして行かなければ、このような素晴らしい、例えば御神訓を頂いてもね。
 今私が申しますような内容、中身を持って行かなければ、わが身は神徳の中に生かされてある喜びは分からないと言う事は、わが身、自身が神徳を受けて行かなければ、神徳の中に生かされてあるという実感は湧いて来ない。初めて疑いを放れて、いよいよ自分の世界と言うか。信心の世界の広くていわゆる大きい。広い真の大道とここにある。大道と大道を開き見る事が出け、その大道をかっぽして行けれる信心。わが身は神徳の中に生かされてあるという事が分かる事。
 わが身が神徳を受けなければ分からないと言う事、実感としてね。ただ聞くだけ聞くと疑いを放れてから、良うと私が言う事を聞いてなさいと。このひとすくいのお水も、この一粒のお米も、天地の御恩徳なしには、御恩恵なしには出けておらんよと聞かされて。ほんにそれはそうたいのと、分かるだけではね、わが身は神徳の中に生かされてある喜びが分からない。わが身自身が神徳を受けなければ、広き大道も、広き真の道も神徳の中に、神の懐の中に抱きかかえられておる事も分からない。
 いかに私共がね、成程金光様の信心によって、すべての事牛馬の事に至るまでと仰せられるのですから、お取次ぎを頂いてお願いをして行きながらも、金光様の御信心がいかに深遠なものであり、その深遠なところに触れて行くところの信心を目指さなければならないかという事が分かります。どんなに有り難そうに言うておっても、神様に嘘を言うような有り難さであってはならない。
 どんなに熱烈、それは狂信と思われるほどしの熱心な信心をしておっても、ただこれば一つ頂かにゃならんからと言うて、拝んだり参ったりしておるだけでは、もう信心を離れたらです。もうそれこそ金光様のこの字も、心の中から湧いて来ないような結果にすらなって来るのでございます。神様は一足でも無駄にはさせんと仰せられるのですから、それがどういう信心であっても、こちらに足を向けてくるが最後。それに対するちゃんと聞き分けは下さるんです、間違いなしに下さるです。
 だから信心を止めて、例えば調子が良いと言うても、それは入れておった銀行のお金を段々引き出しよるようなものである。私共は信心を頂いて、いよいよ信心させて頂けばという事は、真の信心をさせて頂けば、一年一年有り難うなって来ると仰せられるが。自分の信心を振り返ってみて、一年一年有り難うなって来ると言う事がです。分かっていない、分かって行きよらんとするならです。はあ自分の信心は、一つこれは本当な事じゃないなと思うて、焦点を本当なところに置き換えなければいけない。
 それが何かの機会に分かるのです。何でもない時には、自分の本当に有り難いごとあるし、間違っていないごとある。けれど何かにそこに直面する時です、初めてそれが本当な物か、本当な物ではないかと言う事が分かって来るのです。私は先日一昨日でしたか。久留米の佐田さんのお取次ぎをさせて頂いてから、有り難いなあ素晴らしい事だなあと思うておりましたら、昨日また奥さんが午後からのお参りをして見えて、その事に触れられるんです。有り難いと思うたんですけども。
 まあ皆さん御承知の方も多いと思うんですけども。久留米のサダヨさんち言う、乾物問屋さんはもうそれこそ、九州切っての古いお店であるし。まあ300年からですか、200何十年と何百年、とにかく十何代続いたお店でしたけれど、去年一昨年でしたかね、まあ倒産されました。でそれでもやっぱりのれんが古いから、その親戚兄弟というか、やっておられましたけれども、とうとうやって行けなくなって、先日佐田さんのところに色々とそのまあ頼み事で見えられた。
 佐田さんの方は、いわゆる分家にあたる訳なんです。その佐田さんの御兄弟が東京辺りにお嫁に行っておられる方達がね、その言われるのに、昔のサダヨにもう一偏、佐田一門の人達でしてもらわなければ、私だん久留米に里帰りも出来んと言うて、3人から東京に行っておられる子供さん達が言われたと。もうとにかく佐田さんにも、まだ何軒もあるけれどもね、いわゆるそのこの佐田泰造さんより他に、いわば昔サダヨを起こしてくれる人はなかろうと。
 良うと頼んどいてくれと言うて、まあ言われたという話を聞かれた時にです。そらあ、佐田さんも、やはりそういう一つの執念のようなものに燃えておられた時代があったですね。もう一偏、久留米のサダヨを起こさんならん、と言う様な、その為に修行なさっておられた事があったんですけども。それを聞いてからですね、自分自身の信心が本当なことに、少しは進んでおるなあと言う事を感じた事は、それを聞いても一つも心が動かなかったと言う事。成程なら現在おかげを受けておる。
 けれどもそのサダヨとか何とかと言う様な、そのそのいわば理念と言った様なものは、さらさら執着がないと言う事にそう言う事を聞いて、初めて気がついたと言う事を言うておられます。ただもうあるものはね、もうただ一途に合楽の信者としておかげを受けなければならない。金光様の信奉者として、おかげを受けなければならない。そして金光様の信心をすりゃ、この様なおかげが受けられると言う事を現して行けれる商人になりたいと、願っておる自分に初めて気がついたと、泰造さんは言うておられます。
 その事を聞いて、奥さんが、泰造さんの言うその事を聞いてから、もう本当に主人の信心が、あの私どんが事をガタガタ言わんけれども、おかげを頂いておるとに、もうそれこそ涙流してその事を喜んで、お礼のお届けがありましたけれどもですね。これは一年一年有り難うなって行きよるという印なのであります。信心が育ついわば楽しむと言うが。ね、自分の信心が育っておるかどうかと言う事は、何かに直面した時、初めて分かるんです。そしてその現して行く事の喜びが、もう小さい眼目が違うです。
 そこに縋って行く楽しみ、現して行く縋って行く喜びでしたかね。現して行く楽しみがいよいよ増えて行くところのおかげが受けられるのであります。本当にいよいよ本当にただ御教えに御神訓に頂く。真の大道を開き見よ、わが身は神徳の中に行かされてあると言う事が、理屈で分かるじゃなくて、そのようにしてです。実際の面に自分の信心の成長がなされておる。それは信心の目指しが違う。どんなに熱心に有り難そうに信心をしておっても目指しが違うと、何かの時に直面した時です。
 はあ自分の信心はこんなにも、お粗末であったような事が分かればまだ良いけれども。それで信心をもうスッキリ忘れたり、無くしたりしてしまう事にすら、なりかねないのでありますから。心しておかげを頂きたい。本気でわが身は神徳の中に生かされてある喜びを分かるために、神徳を受けて行けれる信心に焦点を置いて、信心のけいこをさせてもらわんならんと言う事が言えますですね。
   どうぞ。